差別について考える授業@妙高高原中学校


3年連続3回目

12月19日(月)、妙高高原中学校の1年生から3年生を対象に、「差別について考える授業」をしてきました。

妙高高原中学校には、一昨年度(いじめ予防授業)、昨年度(薬害教育の授業)にもおじゃましていて、今回は3回目の授業ということになります。

事前の準備など

本当に考えてもらうために

差別について学校で取り上げる場合、「人権教育」「同和教育」「道徳教育」などの位置づけでなされることが多いように思います。私自身が子どもの授業参観で見たときには、「差別は絶対にダメ」「相手に対する思いやりや優しさを持とう」などというまとめがなされていました。子ども達も最初から「正解がわかっている」様子で、予定調和な雰囲気の授業でした。

妙高高原中の生徒さん達も、これまでにそういう授業を何度も受けてきているのではないかと思ったので、「思考停止に陥らないで本当に考えてもらう授業にしたい」と考えました。そこで、生徒さん達に「事前アンケート」をお願いし、以下の項目について回答を考えてもらいました。

  • 世の中にはどのような差別がありますか?
    あなたが知っている差別の類型をできるだけたくさん書いてください。
  • 差別は絶対に許されないと思いますか?(はい・いいえ)
    あなたがそう思う理由を教えてください。
  • どうしたら差別をなくせると思いますか?
    また、そのためにあなたにできることはなんでしょうか?

授業の構成

授業の構成は以下のようにしました。

  1. 差別とはどういうものか
  2. 差別は絶対に許されないか
  3. なぜ差別をしてはいけないのか
  4. 差別はどうして起こるのか
  5. どうしたら差別をなくせるか

授業の概要

1 差別とはどういうものか

差別の定義には様々なものがある。社会学、心理学、文化人類学等々、何に着目するか、どういう目的で定めるかによっても変わってくる。定義不能だという見解もある。ただ、実際にある差別の類型に照らすと、差別の本質は「所属や属性を理由にして特別な扱いをする」点にあるといえる。

人はそれぞれに、他の人とは異なる「個性」を持っている。「個性」は、人が備えているいろいろな性質や属性の核にあたるもの。数百万年にも及ぶ人類の歴史のなかで、後にも先にも「同じ人」、同じ「個性」を持った人は存在しない。他の誰とも違う、たった1人のかけがえのない存在。得意なことがあるかどうか、社会の役に立つかどうか等とは関係なく、ただ存在するだけでかけがえのない価値がある。

森田ゆり著『多様性ファシリテーションガイド 参加型学習の理論と実践』(解放出版社)P31から。

差別の場面では、この「個性」が無視ないし軽視される。多種多様な性質や属性の総体として形成されている人を、特定のカテゴリーの中に押し込める。その人がどういう人かということを、たった1つの所属や属性で決めつけてしまう。典型的なのは不利益に取り扱うことだが、不利益であるか否かにかかわらず、ある性質や属性を理由にして「特別に扱うこと」自体が個性の軽視であり、その人を軽んじることとなる。

2 差別は絶対に許されないか

差別と似たものに、「区別」がある。

人はそれぞれに違いがある。その違いを無視して一律の取り扱いをしようとすると不都合がでてくることもある。だから、合理的な必要性・根拠に基づいて区分けをすることは、「区別」として許される。男女別のトイレやお風呂、未成年者に投票を認めない、一定の身長以下の人はジェットコースターに乗れない等々。

差別は許されないが、区別は許される。問題は、その線引き。どこで線を引くかは難しく、時代や社会によっても変わってくる。例えば日本でも江戸時代までは混浴が当たり前だった。外国にも「混浴文化」が残っている地域がある。また最近は、トランスジェンダーの人も含めて、みんなが使いやすいトイレということでユニバーサルトイレが増えている。

3 なぜ差別をしてはいけないのか

なぜ差別をしてはいけないのか。事前アンケートの回答は、以下のとおり。

「相手を傷つけるから」「相手が苦しむから」「命を落とすこともあるから」「自分も傷つくから」「負の連鎖につながるから」等々、どれも大切な指摘。

また、「その人の可能性を奪うから」「波のように力を大きくして広がってしまうから」等、自分なりの言葉で差別してはいけない理由を表現している回答もあった。

差別をしてはいけない。ただ、「差別は絶対ダメ」で終わらせてしまうと、逆に無自覚に差別をしてしまうことにもなりかねない。誰もが「差別はダメ」と知っているはずなのにどうして差別はなくならないのか、どうしたら差別をなくせるのか、といったことを考える必要がある。

4 差別はどうして起こるのか

(1)各種の欲求と誤解や偏見の結びつき

差別が起こる要因の1つは、誤解・偏見・思いこみ・決めつけ等。
多くの場合自分では気づかない。

また、優越欲求や承認欲求も、差別の要因・原因になりうる。個人差はあるが、多かれ少なかれ誰しもが持っている欲求。普段は、規範意識や道徳観・倫理観で抑制・制御しているので、差別行動にはつながらない。

しかし、優越欲求や承認欲求が歪んだ膨らみ方をしたり、誤解・偏見と結びついたりすると、差別行動につながる。誤解や偏見は無自覚なので、規範意識や道徳観ははたらかない。「差別は絶対ダメ」と思っていても、そうとは気づかずに差別をしてしまうこととなる。

(2)本能が背景・要因となる場合も

感染症などの場合には、「防衛本能」も差別の背景・要因になる。
「感染症」に対する不安や恐怖が、「感染している人」に対する嫌悪につながる。そして嫌悪対象を遠ざけることで、安心感が得られる。

新型コロナの感染が広がり始めた頃に、感染者に対する誹謗中傷が集中的に寄せられたのはこの構造。感染者に対して嫌悪感を抱いているので、「かわいそう」とは思わない。「かわいそうだから差別をしてはいけない」という理由では、このような差別は止められない。

(3)歯止めがきかなくなる

さらに、誤解や偏見、道徳観・正義感が加わると、暴走して歯止めがきかなくなる。「正義」は相対的なものだが、誤解や偏見と結びつくと絶対化されてしまう。自分では道徳・正義に基づく「正しい行為」と思っているため、ブレーキがきかない。

コロナ禍での「自粛警察」などは、まさにこの構造。ハンセン病患者を対象にした「無らい県運動」も、同様の構造に基づく面がある。過去の歴史に照らせば、差別をするのは特別な人ではない。誰もが差別をしてしまう可能性がある。自分事として、差別の歴史から学ぶ必要がある。

5 どうしたら差別をなくせるか

(1)原因をふまえて考える

誰にでもある欲求が1つの要因。だから、誰でも差別をする(している)可能性がある。
誤解や偏見も、誰にでもあるもの。また自分では気づかない。他の人から指摘されたら真摯に受け止めることが大切。そのためにも、無意識の偏見がありうることをよく自覚しておく必要がある。

防衛本能も、誰もが備えているものであり、ないと困るもの。防衛本能から恐怖心がわき、恐怖心が嫌悪感へとつながる。「かわいそう」「やさしさ」「思いやり」では差別を防げない。

「~すべき」が強すぎると、他人の行動が許容できなくなる傾向。道徳観・倫理観は相対的なものであることを肝に銘じる。自分の価値基準だけで他人を評価しない、自分の基準を他人に押しつけない。

「要因」を差別行動に結びつけないためには、自分の「思い」と「行動」を切り離すことが大切。冷静さ・寛容さを取り戻すための術を身につける。想像力、共感力、感情や行動を制御する力、忍耐力、対話力など様々な力を高めることも必要。

(2)アンケートの回答から

事前アンケートの回答は、こちら。どれも大切な指摘。

(3)ありがちな誤解、注意点

まとめにかえて、ありがちな誤解や注意点について確認。

①かわいそう、やさしさ、思いやり?

「かわいそうだからやさしくしよう、思いやりを持とう」などと言われたりすることがある。そこには二重の意味でズレがある。かわいそうという「同情」には相手を見下す意識が含まれていないだろうか。「同情」ではなく、「それはおかしい」という「憤り」を持てるかどうか。

もう1つ。人は、「やさしさ」や「思いやり」を自然に発揮できる相手を差別することはあまりない。そういう感情を持ちづらい相手、「かわいそう」と思えない人、「悪いことをした人」などこそ、激しい差別を受けやすい。

「自分はその人のことを好きではないが、その扱いはおかしい!」と気づけるか、指摘できるか。発揮する必要があるのは「やさしさ」や「思いやり」ではなく、「想像力」や「共感力」の方ではないか。

②同じじゃないとイヤ、~すべき?

「みんなと同じじゃないと不安」「自分だけ違うと恥ずかしい」などと感じる人は多いかもしれない。その気持ちが他の人に対して向けられると、「普通はこうでしょ」「常識だろ」「なんか変じゃない?」「変わってるよね」となってしまう。自分にも他人にもそれぞれに違った個性があり、そこにかけがえのない価値があることを忘れないようにしたい。

「~すべき」についても、それが自分に向けられている分には問題ないが、他人に向かうと危うくなる。ただ往々にして他人にも向けてしまいがち。「みんなに迷惑をかけるべきじゃない」「我慢すべきだ」「ワガママだ」等々。「~すべき」という場合、自分が正しくて相手が間違っているという評価・価値判断が前提になっている。しかし、自分の方が正しいという保証はない。自分の価値観を押し付けているだけではないか。他の人に対しては、「~すべき」ではなく、「~してほしい」というアイメッセージで伝えると、対話につながる。

③自分は絶対にしない、差別を学ぶ?

差別の背景や要因である「本能」や「欲求」は、誰もが持っている。だから誰でも差別をする可能性があるし、現に差別をしている可能性もある。他人事として、単なる出来事として「差別を学ぶ」のではなく、どうしてそのような差別がなされたのか「差別から学ぶ」姿勢が大切。知性や理性は差別を正当化するためではなく、自分の偏見を自覚する方向でこそ発揮して欲しい。

おわりに

(1)双子の赤ちゃんを連れてバスに乗るのはワガママで迷惑な行為か

双子の赤ちゃんを連れた母親が都営バスに乗れなかったことを悲しむ投稿をSNSでしたら、「自分だけで乗れないのに乗ろうとするな」「手伝ってもらって当然という考えはワガママだ」「乗るのに時間がかかって迷惑だ」などの批判的コメントが書き込まれて炎上した。

双子の赤ちゃん連れが自分達だけでバスに乗れないのは、その人達の側の問題なのか。公共交通機関は、誰でも利用できるはずのもの。「双子の赤ちゃん連れ」は、社会に当然存在する。当然いるはずの人がいないかのような前提で組み立てられている社会の方にこそ、不備や欠陥があるのではないか。

自分が容易に超えられる段差はあまり気にならない。それが一部の人にとって重大な「障害」になっていたとしても、そのことを想像することは難しい。現に存在しているのに、気づきにくい不平等や差別。それに気づかないままでいると、知らず知らずのうちに自己中心的な発想・視点に陥ってしまう。

(2)「差別をしない」だけでは十分とは言えない

同じような社会の不備や欠陥は、他にもたくさんあるのではないか。

例えば、愛し合っている人同士が結婚できるのは当然のことだと考える人が多い。異性愛者は、同性愛者が「愛し合っている人同士でも結婚できないこと」に気づきにくい。そのことの不当性、制度の不備や欠陥、差別であることを見過ごしてしまいがち。

このような構造的・制度的な差別を放置することは、差別を温存し、差別に加担することとなる。「差別をなくす」ためには、自分が「差別をしない」というだけではなくて、現にあるこのような「差別に気づき」「差別を解消するために行動する」ことが必要。

授業終了後

授業終了後に、生徒会長さんが感想とお礼の挨拶をしてくれました。授業の内容を正面から受け止め、自分なりに考えを深めたうえで話してくれていることがよくわかりました。

校長先生は、授業を最初から最後まで聞き、写真まで撮って下さいました。授業の後に校長室で懇談したのですが、「いろいろと考えさせられるお話がありました。私が一番勉強になったかも知れません。」「しかしあれだけの内容を時間内にきっちり収めて話せるというのは本当にすごいですね。」等々お褒めの言葉をたくさん頂戴し、恐縮してしまいました。

「人権教育」の授業をするのは初めてだったのですが、準備の過程でとても勉強になりました。授業や講師のご依頼には、引き続きできる限りお応えしていきたいと思います。