子どもに人権をどう教えるか


1 「思いやり」や「やさしさ」が強調される「人権教育」

子どもの授業参観で学校に行くと、「人権教育(同和教育)」と銘打った授業が実施されていることがよくあります。

授業では、いじめられたり、差別されたりして「かわいそうな子」がいる設例が示され、「周りの子はどうしてあげたらいいのか」を考えさせます。子ども達の回答は、「助けてあげる」、「やめろって言う」などというもの。授業のまとめでは、「いじめや差別は人権侵害だから絶対に許されません。常に思いやりを持ち、周りの人に優しく接しましょう。」などといったことが強調されます。

このように「思いやり」や「やさしさ」を啓発するスタイルの「人権教育」の授業は、「思いやり・やさしさ・いたわり型アプローチ」と呼ばれ、全国各地で実施されています。

もちろん、「思いやり」や「やさしさ」はまったく悪いものではありませんし、むしろ必要なものです。ですから、道徳の授業として実施される分には、特段の問題はありません。ただ、人権とは何かを説明する文脈の中でそれらが強調されると、人権に対する誤ったイメージ(誤解)を生じさせてしまうおそれがでてきます。

「思いやり・やさしさ・いたわり型アプローチ」がどのような誤解を生じさせるのか、人権教育で本来伝えるべき内容と対応させて、以下のような表にまとめてみました。

以下では、この表に沿って、2つの内容を順に確認していきたいと思います。

2 人権教育で伝えるべきこと

(1)人権そのものについて

私たち一人ひとりは、他の誰とも違う個性を持った、かけがえのない存在です。その個性が尊重され、自分らしく、人間らしく生きることが保障されなければなりません。

そのための権利が、人権です。人権は、強者の恩情に基づく施しとして与えられるものでも、義務の対価として与えられるものでもありません。いつでも、どこでも、誰にでも、同じように保障される必要があります。

人権教育では何よりも、自分自身がかけがえのない存在であること、あるがままの自分が尊重され、自分らしく生きる権利があるということを、実感をもって捉えられるようにすることが目標に据えられるべきでしょう。

自分が尊重されていると実感することで、他者も同様に尊重されるべきことについても、納得感を持って受け止められるようになります。自分とは違う個性を持った他者を尊重するうえでは、相手の立場になって想像する力、違いを理解して受容する力などが必要となります。

(2)人権が脅かされた際の解決策について

自分の尊厳が侵されたり、脅かされたりしたら、権利を主張して救済を求めることができます。

人権の侵害は、個人間の私的な問題にとどまらず、構造的・制度的な背景をもった社会的な問題でもあります。周囲の人の思いやりだけで問題が解決できるものではなく、原因となっている構造や制度を改良することが必要となります。構造や制度が改良されれば、自分だけではなく、同じように苦しめられている人々や、次の世代の人々を救うことにもつながります。

人権教育では、自分の人権が侵害された場合に具体的にどのような方法で救済を求めることができるのかということや、権利を行使し救済を求めることが自分のためだけではなくみんなのためにもなるということを学べるようにすることが望ましいでしょう。

3 「人権教育」で生み出されがちな誤解

これに対し、「思いやり・やさしさ・いたわり型アプローチ」では、人権に対する以下のような誤ったイメージが作り出されてしまうおそれがあります。

(1)人権そのものについて

人権は「自分の権利」というよりは、「他者に配慮するもの」です。「かわいそうな人」がいたら、「思いやり」をもって「助けてあげる」ことが大切です。

(2)人権が脅かされた際の解決策について

人権は「他者の配慮」によって実現されるものなので、人権侵害があった場合にも、当事者がお互いに配慮することによって解決(解消)を図ります。

「思いやり」をもって「やさしく」接するかどうかを決めるのは、周りの人です。「みんなに迷惑をかける」ことを省みず、自分の権利を主張するのは、「他者への配慮」に欠けた、身勝手な行為です。そのような行為には「共感」できませんし、そのような人物は「かわいそうではない」ので、助けてあげる必要はありません。

やや極端な表現を用いているように感じられるかもしれませんが、人権に対するこのような誤解は、広く日本社会に浸透しています。実社会では、この誤解が「自己責任論」や「同調圧力」などとも結びついて、より深刻な弊害として現れます。

4 誤解が招く弊害

双子の赤ちゃんを連れた母親が、都営バスに乗れなかったことを悲しむ投稿をSNSでしたところ、「自分だけで乗れないのに乗ろうとするな」「手伝ってもらって当然という考えはワガママだ」「乗るのに時間がかかって迷惑だ」などの批判的コメントが書き込まれて炎上しました。

これは「思いやり」や「やさしさ」が発揮される典型的な場面のように思えますし、その場面に立ち会えば手伝ったり乗務員に知らせたりする人も多いかも知れませんが、実際にはそのようにはならなかったようです。

批判的なコメントを投稿した人々は、バスに乗れなかったことの方を問題視するのではなく、自分1人では乗れないのに乗ろうとしたことの方を問題視しています(自己責任)。

移動の自由という人権に対する制約とは捉えないので、思いやりのある親切な人に手伝ってもらえばよい話であって(私人間の配慮)、バス会社側の設備や体制を改める必要があるとは考えません(制度的構造的問題)。

自分は段差や隙間を気にせず利用できるので、それができない人の立場に立って考えることはしません。乗車できなかったことを残念がる投稿は、周りに迷惑をかけて当然だという発想に基づく「思いやり」に欠けるものと評価されます。このため、同情を寄せるべき「かわいそう」な対象ではなくバッシングされても仕方がないと捉えられます。

こうして、「思いやり・やさしさ・いたわり」は、言葉本来の意味とはまったく逆の方向で現れます。

5 置き換えるのではなく対比する

そのすべてが「思いやり・やさしさ・いたわり型アプローチ」のせいだなどと言うつもりはありません。ただ、人権に対する誤解を形成したり再生産したりすることに、一定の影響を及ぼしてしまっている面があることは否めないでしょう。

今求められているのは、人権に対するこのような誤解を解消し、払拭する授業です。

「思いやり・やさしさ・いたわり型アプローチ」の問題は、人権を「思いやり」や「やさしさ」に置き換えて説明している点にあります。

人権とはどういうものかを教えるのは確かに大変難しいことですが、似ているものに置き換えてしまうと、正しい理解にはつながりません。

ではどうしたらよいのでしょうか。私は、人権を「思いやり」や「やさしさ」に置き換えて説明するのではなくて、両者を対比して説明する方がよいのではないかと思います。似ているものと対比することによって、人権を単体で伝えるよりも深みをもって理解できるようになります。

子どもの発達段階によって何をどこまで示すかは変わってくるでしょうが、人権教育を担当する教員は、上記のような対応表を念頭においたうえで授業内容を準備することが望ましいのではないかと思います。


私自身が中学校で実施した「差別について考える授業」の報告ブログです。このブログで書いたこととぴったり重なる訳ではありませんが、あわせてご覧いただければ幸いです。