『上越よみうり』に連載中のコラム「田中弁護士のつれづれ語り」。
2018年5月9日付に掲載された第33回目は、「軍隊は人を守らない」です。
軍隊は人を守らない
沖縄の地上戦で
「軍隊は人を守らない」。今は亡き太田昌秀元沖縄県知事の言葉だ。
太田氏は生前、月刊誌『DAYS JAPAN』のインタビューで自身の戦争体験について語っている。終戦直前の1945年6月、沖縄本島最南端の摩文仁は、首里から撤退してきた3万人の日本兵と10万人以上の住民らであふれかえっていた。米軍の水陸両用戦車が海から次々に上陸して、火炎放射攻撃を繰り広げた。「鉄血勤皇隊」の一員として動員された太田氏もそこにいた。
戦闘がさらに激化した同月下旬頃以降は、飢えも激しくなり、日本兵が住民を射殺して食料を奪うこともあったという。逃げ込んだ壕の中でも、兵隊は比較的安全な奥の方に居座り、住民は入り口付近においやられていた。泣きやまない赤ん坊が、兵隊に銃剣で刺殺される悲劇も起こった。
司馬遼太郎も
軍隊の本来の任務は、国の独立と平和を守ることであり、国民の生命・財産を守ることではない。もちろん、国の独立と平和を守ることを通じて、間接的に国民の生命・財産が守られることもある。しかし、国の独立・平和と、国民の生命・財産とが対立する場合には、前者を優先するのが、軍隊の本質だ。
作家の司馬遼太郎も、著書の中で、戦車部隊の将校が「敵を迎撃すべく戦場に向かうにあたり、戦場から逃げてくる民間人が道路を埋め尽くして戦車が立ち往生してしまう様な場合にどう対応したらよいか」と質問したのに対して、大本営の少佐参謀が「ひき殺していけ」と答えたというエピソードを紹介し、「軍隊というものは本来、つまり本質としても機能としても、自国の住民を守るものではない」と書いている。
自衛隊の「特殊性」
自衛隊も、法律の規定上は、「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つ」ことが「主たる任務」であるとされており、国民の生命・財産を守ることは任務とされていない(自衛隊法3条)。
ただ、自衛隊には、典型的な軍隊とは異なる特殊な面もある。例えば、大規模自然災害時の救助活動などは、「人を守る」活動そのものだ。また、政府が自衛隊を憲法に適合するものと解釈してきたのは、自衛隊が日本に対する武力攻撃から国民の生命や自由を守るための実力組織とされたからだ。つまり、自衛隊は「人を守る」ためのものであるとの理解が、政府解釈の前提となっていた。
自衛隊が多くの国民の「支持」を得てきたのも、通常の軍隊とは異なるこうした性質が背景にあるだろう。
安保法制後の自衛隊
しかし、安保法制によって行使可能とされた集団的自衛権は、こうした活動とは明確に性質が異なる。
同法では、「我が国の存立が脅かされ・・・る明白な危険」がある場合に、集団的自衛権を行使できるとされている。「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があることも並列的に記載されてはいるが、「人」ではなく「国家」が前面に出てきていることを見過ごしてはならない。
つまり、安保法の制定によって、自衛隊は、「人を守る」実力組織から、「国家を守る」軍隊へと変わったのだ。圧倒的多数の憲法学者や、元最高裁長官を含む元最高裁判事らが、安保法制を憲法違反だと指摘したのは、こうした基本的性質の変化が条文解釈の限界を超えているからだ。
憲法明記による変容
日本は、戦前、軍部の暴走をコントロールできずに無謀な戦争へと突き進んだ結果、多くの尊い命を奪い、また失うこととなった。その痛恨の悲劇を繰り返さないために戦力を持たないと定めたのが、日本国憲法だ。
自衛隊に対しては、これまで、「戦力」にあたるのではないか、憲法違反ではないか、といった憲法上の疑義が呈されることを通して、適切なコントロールが及ぼされてきた。自衛隊を憲法に明記すれば、こうした立憲的コントロールは失われる。また、自衛隊に対して憲法上の正当性が付与されることとなる。つまり憲法は、自衛隊に対する歯止めから、自衛隊の権威を根拠づけるものへと転換するのだ。
憲法上の存在へと格上げされた自衛隊を、文民統制を含む民主的統制や司法的統制だけで適切にコントロールしうるか。PKOの日報問題をめぐって、自衛隊に対する文民統制が機能していないことが明らかになったいま、その答えに議論の余地はないのではないだろうか。