民主主義と立憲主義(前編)


税経新人会という、税理士さんの団体の機関誌『税経新報』に寄稿しました。
以前、共謀罪に関する論文を寄稿した雑誌です。
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書く過程で、民主主義や立憲主義、公文書の改ざんや隠蔽など、いま起こっている様々な問題についての理解が深まったので、ブログでもご紹介することにしました。
今回が前編で民主主義や立憲主義についての解説、次回の後編では、いまの政権のもとで起こっている様々な問題について民主主義や立憲主義の観点から考えています。

第1 はじめに

現政権は、その発足以降今日に至るまで、秘密保護法、安保法制、「共謀罪」法など、憲法違反と指摘される立法を繰り返してきた。また最近では、公文書の改ざん(森友問題)や隠匿(PKO日報問題)、データの偽装(裁量労働制)など、行政権の機能不全とも言うべき、深刻な問題が相次いで明らかになっている。

いったいこの国ではいま何が起こっているのだろうか。問題の本質はどこにあり、どのような問題として捉えるべきなのだろうか。

これらのことを考えるうえでは、「国の設計図」である憲法についての基本的理解が不可欠である。憲法が採用する諸制度がそれぞれどのような理念に基づくものなのか、制度と制度の関係はどのようなものであり、相互にどのような作用を及ぼしあっているのかといったことを踏まえることではじめて、それぞれの問題が、制度のどの部分に関わるものであり、問題の本質がどこにあるのかを正しく捉えることが可能になる。

そこで本稿では、憲法の基本原理から説き起こして、上記の問題について考えることとしたい。

第2 憲法の基底的価値は「個人の尊重」

1 憲法の条文を1つだけ残すとしたら

「99ある憲法の条文のうち、1つだけしか残せないとしたら、あなたはどの条文を残しますか?」。憲法の学習会などで講師を務める際、参加者に対して質問する様にしている。

参加者からは、9条(平和主義)、21条(表現の自由)、25条(生存権)、97条(基本的人権の本質)など様々な条文があげられる。もちろんどの条文も重要であり、なくてもよい条文などありはしないが、もし1つだけしか残せないのであれば、私は13条、それも前段を選ぶだろう。

13条前段は「すべて国民は、個人として尊重される。」と規定している。ここには、憲法が何を大切にしているかという、もっとも根本的な価値規範が示されている。誰もがそれぞれに、その人にしかない個性を持っており、誰もが等しくかけがえのない存在である(=みんな違って、みんないい)というのが、憲法がもっとも大切にしている価値だ。

2 三原則を支える基底的価値

憲法の三原則(基本的人権の尊重、国民主権、恒久平和主義)、さらにいえば憲法のすべての条文や制度も、この基底的な価値を実現するためにある。
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一人ひとりをかけがえのない個人として尊重するためには、自分らしく人間らしく生きることそのもの=人権を保障することが必要となる(基本的人権の尊重)。

また、一人ひとりの政治に対する考え方を、等しく価値あるものとして政治に反映されるようにするために、みんなのことはみんなで決めるものとされた(国民主権)。

さらに、一人ひとりが自分らしく生きるためには、その大前提として平和であることが必要である(恒久平和主義)。

第3 民主主義~少数派の納得を得るための手続

1 法律は等しく尊重される個人と個人を調整するためのもの

「個人として尊重される」のは、自分だけではない。当然のことながら、自分以外の人も等しく尊重されなければならない。つまり、日本国憲法は、等しく価値を持つ個人同士がお互いの違いを認め合う、多様性が尊重される社会を目指している。

考え方、価値観、好みなどが異なる多くの人々が、社会のなかで一緒に暮らしていくうえでは、それらの「調整」が必要になる。この「調整」は、異なるものを同一化するということではない。それぞれが異なったままの状態で、お互いを尊重し合いながら生きていくための「調整」だ。

こうした調整を行うためには、一定の場合に強制力が必要となる。そこで登場するのが法律だ。法律は、国民の権利を制限したり、国民に義務を課したりするものであると定義される。対象となる人の意思に反してでも、権利を制限したり、義務を課したりすることができるという強制力を持っている。

2 法律が強制力を持つ根拠

それでは、どうして法律は強制力を持ちうるのか。人々の意思に反してでも法律に従わせることができる正当性はどこにあるのだろうか。

その答えを一言で言えば、「みんなで決めたことだから」ということになるだろう。みんなが従うルールを、みんなで話し合って、決める。ルールを作る人(みんな)と守る人(みんな)が一致している。これが民主主義だ。なお、封建制社会や独裁国家などでは、ルールを作る人(王様・独裁者)と、ルールを守る人(その他の人々)とが別々である。このような制度の下では、力によって強制的にルールに従わせることになるが、みんなが納得して従う訳ではないから、そのような体制は永続きしない。

日本国憲法は、民主主義を採用している。ただ、1億人を超える国民が「みんなで話し合う」ことは現実的ではないから、みんなで選んだ人同士が話し合って決めるという制度(間接民主制)を採用している。国民の代表者で構成される国会を、「国の唯一の立法機関である」と定める憲法41条は、国民から選ばれた国会議員が話し合って決めない限り、原則として国民の権利を制限したり義務を課したりすることはできないということ(国会中心立法の原則)を定めた規定であると解釈されている。

別の角度から見ると、異なる意思や意見を持った人を含む「みんな」に対して強制力を持たせるためには、みんな(自分たち)で決めることが必要だということもできる。つまり、民主主義には、みんなが納得するための手続きという側面もある。みんなが納得するための手続を踏むのは、みんなを「個人として尊重」することの帰結でもあるし、納得が法律の強制力を支えるからでもある。

3 みんなが納得できる様にするために必要なこと

では、「みんなで決める」とは、どういうことか。みんなの意見が同じではない場合には、どのような方法で決めるべきだろうか。

まず、みんなに意見を出してもらうこと、みんなの意見を聞くことが出発点となる。それによって、それぞれの意見の共通点や相違点、相違点の背後にある理由などが共有される。話し合いを通じて相互理解が深まれば、それぞれに譲歩したり調整したりする余地も生まれてくる。みんなで話し合うことで、それまでは思いもよらなかった様な、よりよい答えが見つかることもある。

ここで言う話し合いは、異なる意見の人と対立的に議論してどちらが正しいかの決着をつける「討論」ではなく、異なる意見の人とやりとりすることを通じて相互理解を深めたり、よりよい答えを見つける「対話」である。
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こうした話し合いを経ないでいきなり多数決をしても、「みんなで決め」たことにはならない。意見が異なる人に対しても強制力を持って従わせる以上、みんなの意見を聞き、それをふまえた決定がなされるべきであるし、そうでなければ異なる意見を持つ人は納得しないだろう。

4 多数決をする場合でも納得が大切

話し合い(対話)を尽くしても、みんなが納得できる答えが出ない、あるいは全員が賛成できる案を見いだせない様な場合の、苦渋の選択が、多数決だ。

しかし、このような場合でも、多数派には少数意見を出来る限り取り入れる努力が求められる。そうでなければ話し合いをした意味がないし、そうであってこそ少数意見の立場に立つ人も、ルールを守ろうと思える様になるだろう。少数派が納得して自主的にルールを守ることは、多数派にとっても利益といえる。

第4 立憲主義~自由や権利を守るための制度

1 みんなで間違えることもある

上述した通り、民主主義は本来、少数派の納得を得るための手続であるが、苦渋の選択とはいえ多数決が用いられることから、多数派の意向ばかりが重視されることになりがちである。

そして、そのときどきの多数意見(民意)が常に正しいとは限らない。戦前の日本やナチス・ドイツがよい例だが、みんなで間違えてしまうことは、むしろよく起こるとすら言える。

2 みんなで間違えた場合の弊害

しかし、国家権力は強い力を持っているので、間違えた際の弊害は大きい。国家権力は、その行使の仕方によって、国民の財産や自由、ときには命までも奪うことができる。

また、国家が戦争に突き進めば、それによって多くの人々の命が失われることとなる。そうなれば「個人の尊重」など到底実現できない。

3 みんなで間違えないようにするために

そこで、そのときどきの多数の国民が、雰囲気に流されて間違った判断をしないように、あらかじめ冷静に判断できるときに、多数で決めてはいけないことや、多数決で奪ってはならない価値=人権のリストを定め、列挙したのが憲法だ。

みんなで間違えることのない様にするために、人権のなかでもとりわけ重要なのが表現の自由だ。権力に対する批判が自由になされることで誤りに気づくことができるからだ。また、自由な表現行為の前提として、事実が知らされていること、情報が制限されず正しく伝わっていることも必要になる。