憲法が求める人権教育と学校の「人権教育」のギャップ(埼玉弁護士会での講演)


ブログがきっかけ

8月9日(金)、埼玉弁護士会におじゃまして、人権教育について講演してきました。

「子どもに人権をどう教えるか」というブログをきっかけにしたご依頼です。このブログをきっかけにした講師依頼は、北諏訪小学校の先生方向けの研修をしたのに続いて2回目ということになります。

事前の打ち合わせを踏まえて準備

講演の内容や企画の趣旨について、埼玉弁護士会の小山香先生と、メール、電話、オンラインなどで何度か打ち合わせを行いました。小山先生からは、上記ブログに掲載した表についての説明とともに、「人権は基本的に対国家の権利である」ということを強調して欲しいといった希望を伺いました。

「子どもに人権をどう教えるか」に掲載した表

当初は、「夏休み期間中でもあるので、弁護士だけではなく、学校の先生方にも広く参加を呼びかけたい」というお話だったのですが、その後、諸事情からそれは難しくなったとの連絡があったため、弁護士向けに話す内容を準備することとなりました。

あれこれ悩んだ末、北諏訪小学校の先生方向けの研修でお話した内容のうち、弁護士であれば当然知っている部分については要点をさらっと確認したうえで表の説明を行い、「人権が基本的に対国家の権利である」ということに関連して、人権規定の私人間効力に関する近時の学説についてお話することにしました。

当日会場で

当日、会場について埼玉弁護士会の先生方にご挨拶。そこで、さいたま市の教育委員会の方や、地元の中学校の先生方も参加して下さることになったことを知らされました(第1の衝撃)。

さらには、宇都宮大学准教授の黒川享子先生もオンラインで参加されるとのこと(第2の衝撃)。黒川先生の論文(『「学校の常識」を法的観点から問い直す――人権教育を「砂上の楼閣」にしないために――』)は、学校で広く行われている「人権教育」の問題点を法学の視点から鋭く指摘するもので、私もブログを書く際に読み大変参考になりました。

上記2つの衝撃を受けて、やにわに緊張が高まりました笑。

お話したことの概要

(1)ブログ掲載の表に関わる説明

とにもかくにも、教員向け研修でお話したことを一通り説明し、表を示しながらそれまでお話したことをおさらい。

なぜ左上方を見ているのか自分でもわかりません。。。

(2)人権が対国家(公権力)の権利であること

歴史的に見て、人権の最大の侵害者は、国家。そこで、国家が侵すことのできない個人の権利を憲法に規定して、国家権力の行使に縛りをかけた。だから憲法上保障されている人権は、基本的には対国家(公権力)の権利(下の図の縦向きの矢印)である。

しかし、学校で広く行われている「人権教育」の授業で強調される「思いやり」や「優しさ」は、個人と個人の関係(上の図の横向きの矢印)に関するもの。私人(個人)による人権侵害についても対応する必要があることから、私人間にも人権規定がまったく及ばない訳ではないが、基本から外れた応用的な領域に関するものであることに注意が必要。

基本を飛ばして応用部分だけが強調されると、人権に対する誤った理解が広がってしまうおそれがある。

(3)権利を主張することがワガママと評価されてしまう要因

そして、個人と個人の関係(横向きの矢印)で捉えた場合、誰かが権利を主張すると、他者に譲歩を求めることになって、利害が衝突してしまう。このため、ワガママだ、身勝手だ、自己中だという評価につながりやすい。権利を主張するのが少数派である場合には、その傾向がより顕著となり、叩かれやすい。

これに対し、個人と国家(公権力)の関係(縦向きの矢印)として捉えた場合、権利主張は現行の制度やルールに対する異議申立となる。制度やルールが改善されれば、他者もその恩恵を受けることができる。このため、権利を主張する人は、みんなのために声をあげてくれた人と評価されることとなる。

「人権教育」で、「思いやり」や「優しさ」を強調することには、このような問題もある。

(4)日本社会に広がっている価値観を変えるために

また、日本社会には「自助・共助・公助」の精神と、そこから歪んだ形で派生した「自己責任・同調圧力・施し」といった価値観が広がってしまっている。

人権教育の役割は、このような歪んだ価値観を払拭・変容させる点にこそある。しかし、「思いやり」や「優しさ」は、「共助」の精神に親和的なものなので、それらをいくら啓発しても、上記のような価値観を払拭・変容させることは期待できない。

やはり、自分には尊厳があること、他者も自分と同様に尊厳ある価値として尊重されるべき存在であること、個人には人権があり国家(公権力)にはそれを保障すべき義務があるといったことをしっかり対置させることによって、「自己責任・同調圧力・施し」といった歪んだ価値観を改めていくことを目指すべき。

終了後の懇談と懇親

終了後に、質疑を兼ねた懇談の時間がありました。特に、教育委員会の方や学校現場の先生方が、私の話をどんな風に受け止めたのか気になったのですが、みなさんとても意識が高く「お話されていたことはどれも頷けるものでした」「自分がこれまでやってきたことは間違いじゃなかったと自信を持てました」など、積極的・好意的な受け止めが多かったのでほっとしました。

懇親会でも、弁護士、修習生、学校の先生方と懇親を深めることができました。特に若手の先生方の熱い思いに触れることができたことは大きな刺激となりました。


以下では、参加者が弁護士だけであることを想定して準備していた、人権規定の私人間効力に関する近時の学説についての説明内容の要点を記載します。

従前の学説

以前には、公法私法二元論に基づく無効力説もあった。しかし、これでは「社会的権力」による人権侵害に対応できない場面がでてきてしまい問題が大きい。

人権は、公法・私法を包括した全法秩序の基本原則であり、すべての法領域に妥当すべきものである。このような理解を前提に、私人間にも直接適用されるというのが直接適用説(直接効力説)。

しかし、直接適用を認めると私人間の行為が憲法によって大幅に規律されることとなる。自由権の本質は「国家からの自由」であるのに、個人の領域に国家が権力的に介入することを是認する端緒となりかねない。そこで、法律の概括的条項を、憲法の趣旨を取り込んで解釈・適用することによって、間接的に私人間の行為を規律していくべきであるというのが間接適用説(間接効力説)

直接適用説(直接効力説)の中でも、私人間における効力については国家権力に対する効力と同一ではなく相対性を認める立場もある。また、間接適用説(間接効力説)の中でも、「国家行為」の理論によって、一定の場合に直接的な適用を認める立場もある。このような調整を加えることで、直接適用説と間接適用説との間に実質的な差異はほとんどなくなっている。

近時の学説

通説・判例が採用する間接適用説(間接効力説)に対しては、どうして間接適用が認められるのかという点に関する理論的根拠が不明確であるという指摘があった。

近時、この点について、直接効力的立場から説明を試みる見解や、無効力説的立場から説明を試みる見解など、新しい学説が数多く示され、百花繚乱の様相を呈している。

高橋和之らが主張する新無効力説は、全方位的に効力を有する「人権」(自然権としての人権)と、憲法上の権利(基本権)とを区別。憲法上の人権は、私人間では効力を持たないとする。私人間で「人権」の調整をするのは、法律の役割であり、個別の法律がない場合には、私法の概括条項や一般条項で、私人間の「人権」調整が裁判官に委任されていると解する。

小山剛らが主張する基本権保護義務論は、間接適用説(間接効力説)を前提に、私人間効力の問題を、司法権による保護義務履行の問題と捉える。裁判所には、私法の解釈適用に際して、客観的価値秩序たる基本権法益を実現し、被侵害者たる私人の基本権法益を保護する義務がある(下の図の右側の縦の矢印)。他方で加害者たる私人の基本権を侵害してはならない不作為義務も負っている(下の図の左側の縦の矢印)。
保護義務と基本権の調整は、第一次的には立法府の役割だが、裁判所も具体的事案の解決に際して両者の調整を図らなければならない。私法の一般条項はこの作為義務を履行するための手段である。

理解の便宜のためにつくったオリジナルの図です。

まとめ

現在は、個別具体的な法律がなければ私人間の人権侵害について手だてのとりようがないという、伝統的な無効力説を支持する学説はなくなっている。私法領域に国家機関である裁判所が踏み込んで、人権・基本権法益の実現を図りうることは当然視されており、どの学説でも具体的な事案の帰結に大きな差はない。ただ、国家権力の不当な介入を招かないように配慮しつつ、「人権保障は国家の義務である」という原則を明確に示せるという点で、基本権保護義務論は優れているように見える。

なお、人権規定の私人間効力の問題は、市民相互間の自由・利益の調整をいかなる形式で、いかなる方向で行うべきかという、より広汎な問題状況の一局面に過ぎない、との評価もなされている。