新潟水俣病資料館に行ってきました


合宿2日目の企画として

2025年11月9日(日)、薬害肝炎東京原告団のみなさんと一緒に、新潟水俣病資料館(「新潟県立 環境と人間のふれあい館」)に行ってきました。

薬害肝炎原告団・弁護団は、「薬害資料館」の創設を求め、取り組み行ってきています。その一環として、東京原告団では、各地で開催される原告団合宿等の機会に現地にある資料館を訪問し、どのようなコンセプトで、どのような展示がなされているか等について学んでいます。今回は、11月8日から新潟市で行った合宿の2日目に、資料館を訪問することになったという訳です。

資料館自体は事前予約なく見学することができますが、事前に連絡をしておくと、様々なプログラムを組み合わせた学習プランを提案してもらえます。今回は、「語り部」の方の口演と、館長さんによる館内展示の案内・説明に映像上映を組み合わせたプランで実施することになりました。

語り部の方の口演

今回「語り部」をしてくださったのは、新潟水俣病被害者の会会長の小武節子さん(89歳)です。自然体の親しみやすい語り口に、お話の冒頭から引きつけられました。

戦争で早くに父を亡くし幼少期から経済的に苦しい生活であったこと、阿賀野川の堤防のすぐ近くに住んでおり川は遊び場でもあったこと、阿賀野川はウグイ、ボラ、サケ、シジミなどがとれる「命の川」であったこと、結婚して子どもができ「丈夫な子が生まれるように」とみんなが魚を持ってきてくれそれを食べていたこと、その魚がメチル水銀に汚染されていたため手の硬直・しびれ・麻痺、手足の冷えなどの症状が出て徐々に強くなっていったことなどが語られました。

第一次訴訟は4年で決着し高額の賠償が支払われることになったものの、そのことが妬みの種となって、偏見や差別が強まったとのこと。水俣病患者に認定されると「みなが来た」などと言って差別されたり、「金ほしさのニセ患者」「水俣御殿」などと揶揄されたりするため、小武さんの夫はかなり重い症状があったのに、クビになるのを恐れて検査すら受けようとしなかったということでした。子煩悩だった夫はひどい症状に悩まされ、人が変わったようになってしまい、暴言・暴力を繰り返されたこと、川に飛び込んで死のうと何度も思ったが、親が亡くなった後の生活の大変さを身にしみて知っているから思いとどまったとお話されていました。「水俣病がすべてを変えてしまった」という言葉が印象的でした。

ご自身は1982年の第二次訴訟で提訴。地裁で10年たたかって勝訴判決を得て、高裁でも3年半たたかって、村山政権のときに和解が成立。その間、広く支援を呼びかける取り組みを行ってきたこと、差別や偏見もあったが他の公害患者さんのがんばりに感動したり、「応援しているよ」と声をかけてくれる人に励まされたりしてがんばってきたことなどをお話されていました。街頭宣伝、地方議会要請、国会議員要請、座り込みなど、薬害肝炎のたたかいと共通する部分も多く、みなさんもイメージしやすかったのではないかと思います。

お話の最後に、「今日お越しのみなさんは薬害の被害者の方だと聞いています。どうかお身体を大切にしてがんばってください」というエールの言葉をいただきました。こんなに励まされる「がんばってください」という言葉もないなと感動し、涙ぐんでしまいました。

館内展示の案内・説明

館内の案内は、館長さん自らが担当してくださいました。

この資料館は、①新潟水俣病の経験と教訓を後生に伝えるということと、②水の視点から環境を大切にする意識を育むという、2つをコンセプトに作られたということでした。

「水辺のいきものと阿賀野川のくらし」のコーナーでは、阿賀野川流域のジオラマを真上から眺められるようになっているところで説明を受けました。

また、デジタル機器を用いて画像・映像を見られるようになっている点に、工夫を感じました。

2階の壁面に映写される映像では、公害が発生する前の阿賀野川流域の暮らしぶりがどのようであったか、それが公害によってどのように変わってしまったのか、その後環境を回復するための取り組みがなされ再び水との共生が図られてきているという経過がわかりやすくまとめられていました。穏やかな声のナレーションで、とても聞きやすかったです。

展示全体をとおして、「水」と私たちの生活の関わりについて多面的に学べるようになっているということが強く心に残りました。公害の資料館ということで、「被害と向き合う覚悟」をもって訪問しましたが、そのように構える必要はなく、気軽に訪れて学べる場になっていると感じました。

現在進行形の問題

いまでも、「ノーモア・ミナマタ新潟第二次全被害者救済訴訟(第五次訴訟)」が東京高裁でたたかわれています。

また、全被害者を救済するための新法案の成立を目指す取り組みも行われています。

新潟水俣病が公式に確認されてから既に60年が経過し、被害者の多くが高齢化するなか、一刻も早い全面解決が求められています。