つれづれ語り(国家のプログラム)


『上越よみうり』に連載中のコラム、「田中弁護士のつれづれ語り」。

2019年5月1日付に掲載された第58回は、「国家のプログラム」です。
私たちは評論家的な立場にいるのではなく、自らが判断を迫られる立場にあるのだということを忘れないようにしたいですね。

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国家のプログラム

哲学的な日本のアニメ

少し前に,子どもたちとドラえもん映画「のび太の宝島」を観ました。

日本アニメが面白い理由の一つとして「哲学的な問いが含まれているからだ」という話を聞いたことがあります。この映画でも,「ノアの箱船」をモチーフに,「人類滅亡を防ぐため,一部の者たちだけを救い,他を犠牲にすることは許されるのか」という問いがありました。そして,この問いに対し,「子どもたちの未来のために」とノアの箱船計画を実行しようとする科学者と,「あなたの子どもたちはそんなことを望んでいるのか」と疑問を投げかけ計画を阻止しようとするのび太たちの対比が描かれていました。

正解のない問いに

「大勢を救うために少数の者を犠牲にすることは許されるか」は,昔から多くの人々が考え続けてきた問題です。なかでもフィリップ・フットらが考案した「トロッコ問題」と呼ばれる倫理学の思考実験が有名です。暴走するトロッコ列車の線路の先に5人の人間がいる。手前にある分岐点でレバーを引けば進路が変わり5人を助けることができるが,別の線路にいる1人を轢き殺してしまう。果たして分岐点でレバーを引くべきか。というものです。

最近はこのバリエーションで,近い将来に普及が見込まれる自動運転の車の哲学的な問題が提起されています。ブレーキが故障した自動運転車が猛スピードで走っており,このままでは前方にいる通学中の小学生5人を轢き殺してしまう。ハンドルを切って壁に激突すれば小学生らは助かるが,乗車している者は即死する。このようなシチュエーションの際にどちらの動作を選択するようプログラムしておくべきか。というものです。ある大学の調査報告では,同様の設問に対し,多数の命を救うようにプログラムすべきとの回答が大半となった一方,「では,あなたはそのようにプログラムされた車を買うか?」と聞かれると足踏みする傾向があるというジレンマが指摘されています。

こういった問題について,私たちはどのように考えるべきなのでしょうか。

功利主義と義務論

ベンサムに始まる功利主義は,社会全体の効用の総和を最大化させること(「最大多数の最大幸福」)を重視し,カントの義務論は,誰もが従う義務のある道徳法則に従い行動すべきで,人の命を何かの目的に利用すべきではないと説きます。前者の考え方からは5人を救うために1人を犠牲にすることは正しく,後者であれば間違いだという結論が導かれます(単純化すればですが)。

憲法,安全保障,原発,予防接種の在り方など,世論を二分するような様々な問題の背後には,実はこの功利主義と義務論についての価値観・考え方の相違があることが少なくありません。

国家,政府,多数派の意思に基づく民主主義にとって,社会全体の幸福を最大化させることは本来的任務ですから,功利主義的発想に基づいて様々な政策が決められていくのは,ある意味自然なことです。しかし,トロッコ問題にあるように,それが常に正しい姿勢とは思えない方は少なくないでしょう。では,そのバランスはどのようにとっていくのがいいのでしょうか。

犠牲になるのは誰か

憲法は,「権力を抑制して人権を守るためにある」とか「少数者の人権保障の最後の砦」などという説明がよくされますが,功利主義と義務論のバランスをとるためにある,という言い方もできるかもしれません。憲法に関わる問題について考えるとき,その背後にある功利主義的発想と義務論的発想の相違,すなわち国家と国民,集団と個人,大勢と少数者の関係に関する倫理的・道徳的価値観の違いを意識すると,新たな見方ができるかもしれません。そのとき,私たちは,外の立場から眺めた評論家ではなく,「大勢の他者の命を守るために自分の命を犠牲にするプログラムが組まれた自動運転の車を買うかどうか」と同じ性質の判断を常に迫られているのだ,という視点をもつべきです。