弁護士紹介

ごあいさつ

田中 淳哉 (たなかじゅんや・新潟県弁護士会所属)

私は、大学時代に弁護士を志しました。阪神大震災でボランティア体験をしたり、沖縄に行って反戦地主の方の話を聞いたり、薬害エイズ訴訟の支援活動をしたりするなかで、社会的弱者に光が当たらない現実を実感すると同時に、社会のゆがみを是正するために奮闘する弁護士の姿を見て感銘を受けたことがきっかけでした。

弁護士になってすぐ、薬害肝炎弁護団に入りました。被害者の方の話を聞き、長期間に渡って、体にも心にもそして経済的にも大変な負担を負わされ続けていること、被害者には何の非もないのに「家族に申し訳ない」と思わされていることを知りました。それに引き替え、加害者である国や製薬会社が、これまでにも多くの薬害を繰り返しながら責任逃れの態度に終始していることが許せませんでした。

薬害の弁護団に加わったこともあり、医療事件は、私の弁護士活動の軸となっています。2007年から2008年にかけては、松戸医療事故フォーラムの事務局長をつとめました。また、現在でも、東京の医療問題弁護団の準会員として活動しています。

高校までのときを過ごした上越市に戻って法律事務所を立ち上げるにあたり、みなさんにとって「身近な相談相手」、「信頼できるパートナー」でありたいと考えました。相談にいらっしゃるお一人お一人の不安や悩みをしっかり受け止め、丁寧な対応を心がけます。

略歴

1975年 上越市生まれ(小中学校時代を春日地域で過ごす)
1990年 新潟県立高田高校に入学
1993年 千葉大学 法経学部法学科に進学
1997年 千葉大学を卒業
2001年 司法試験に合格
2003年 弁護士登録(千葉県弁護士会)
以降、千葉の法律事務所に所属し、首都圏(主に千葉県・東京都・茨城県・埼玉県)を活動エリアとして、民事・家事・刑事の各種事件を数多く取り扱う。
また、薬害肝炎東京弁護団の一員として活動する。
2013年 上越中央法律事務所を開設(新潟県弁護士会)

報道等

弁護士本人にスポットを当てたインタビュー記事等を掲載します。
弁護士の取り組み等に関する報道は、こちらをご覧ください。

※ 画像はクリックで拡大します。

新潟日報1
2008/04 新潟日報
新潟日報2
2010/01 新潟日報
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2013/11 朝日新聞
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2017/02 月刊上越

著作・論文等

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『薬害肝炎裁判史』
(日本評論社)・共著
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『わたしたちにできる「安保法制NO!」』
(岩波書店・『世界』2015年10月号)
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『共謀罪の本質的問題点』
(『税経新報』2017年9月号)
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『教育で未来をつくるには』
(『教育経営研究』第23・24号)
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『民主主義と立憲主義~現政権下で起こる諸問題を憲法の基本原理から考える』
(『税経新報』2018年5月号)

弁護士を志した理由

以下は、私が弁護士登録した2003年12月に自己紹介文として書いた文章です。

良くも悪くも「若い」文章で今読むと気恥ずかしくもありますが、私の初心を示すものとして原文のまま掲載します。

私が大学生だった頃は、阪神大震災、米兵による少女暴行事件や薬害HIV訴訟など、社会全体に大きな衝撃を与える出来事が頻発した時期でした。私は「どうなっているんだろう。自分にも何かできることがないか」といった思いから、いろいろなことに参加しました。

震災ボランティアで炊き出しや聴き取りをするなかで、復興の中心となるべき住民の声が反映されないことに不条理を感じました。

沖縄では泡盛を飲みつつ、現地の方にお話を伺いました。琉球民族には非武の伝統があること、地上戦とその後の土地収奪の苛烈さ、米兵の凶悪犯罪が今も繰り返されていること等々、そして平野部のほとんどが米軍基地で占められている現実を目の当たりにして、基地の撤去を求める人々の思いが理解できました。

また、大学内で川田悦子さんの講演会を開き、参加者に呼びかけて「支える会」をつくりました。命より金儲けが優先されたこと、薬害が繰り返されていることに憤りを感じました。

社会的弱者に光が当たらない現実を実感すると同時に、社会のゆがみを是正するために奮闘する弁護士の姿を見て感銘を受けました。自分もそうなれるよう精進する決意ですので、ご指導いただければ幸いです。

薬害肝炎弁護団に加わったきっかけ

以下は、私が弁護士登録した直後の2003年10月に書いた文章です。その後、2008年1月に、国や製薬企業と基本合意を行い、救済法が成立するなど、大きな成果が得られており、状況は大きく変わっていますが、「初心」を忘れないために原文のまま掲載します。
なお、現在でも、肝炎の医療体制を整備する「恒久対策」や、繰り返される薬害の連鎖を断ち切るため薬事行政のあり方を転換する「再発防止」など、まだまだ課題は山積しており、原告団・弁護団の活動は続いています。

私が薬害肝炎弁護団に入ったのは、友人に誘われて弁護団の新人弁護士向けガイダンスに参加したのがきっかけでした。薬害肝炎訴訟の概要について一通りの説明を受けた後、傍聴に行きました。

法廷の中に入ると、原告側の席は、それまでには見たこともないような人数の弁護士で埋め尽くされていました。傍聴席もほとんどの席が埋まっている状態でした。そんな空気にやや気圧されながら傍聴を終え、傍聴者向けに裁判の内容などを説明する報告会に参加しました。そこで、原告の方の意見陳述を聞きました。

出産の時に大量に出血して、止血剤として血液製剤の投与を受けたこと、その直後に悪寒に襲われたときの恐怖、病気が進行していくことに対する不安、治療に伴う副作用の激しさ、病状を周囲に理解してもらえないつらさ、家族に申し訳ないという思い・ ・ ・ 淡々と話す原告の言葉からはいろいろな感情が伝わってきました。

その時までは、正直言って、弁護団に入るのは止めておこうと思っていました。ガイダンスで概要を聞いたときや法廷傍聴をした際に、医学の専門用語が飛び交い(今にして思えばそれほどのことはないのですが)、ほとんど内容を理解できなかったため、弁護団に入ったとしても力にはなれないと思ったためです。

でも、原告のお話を聞いて、自分が力になれるかどうかは分からないけれど自分も何かしたいという気持ちに変りました。原告が、長期間に渡って、体にも心にも、そして経済的にも大変な負担を負わされていること、また、原告には何の非もないのに「家族に申し訳ない」と思わされていること、それに引き替え、国や製薬会社は、これまでにも多くの薬害を繰り返しながら未だに責任逃れの態度に終始していること、そんな状況が許せませんでした。

C型肝炎は、慢性肝炎、肝硬変を経て肝臓癌に進行していく危険性が高い、とても重い病気です。C型肝炎の主たる治療法であるインターフェロン療法は、感染者の約 30%にしか効果がない上、脱毛や鬱病など強烈な副作用を伴うものです。また、インターフェロンをやるには、まず1か月間の入院をし、その後は週3日通院して注射を打たれるという生活を6ヶ月間続けなければならず、経済的負担も相当なものになります。加えて、病気に対する不当な差別や偏見は医療機関においてすら存在します。

原告の多くは、出産時に緊急の止血目的等から血液製剤を投与されました。出産は直接・間接に誰もが関わる問題であり、決して他人事ではないと思います。新しい命が生まれる、最も喜ばしい瞬間に、薬による肝炎感染という悲劇は起こりました。治療法については、輸血や基礎疾患の排除など、より安全な選択肢があり、避けられた悲劇でした。また原告の中には、自分が感染していることに気付かず、母子感染させてしまったという方もいらっしゃいます。

このような被害が起ったのは、製剤を製造承認する際のずさんさが原因となっています。フィブリノゲン製剤が承認された1964年の時点ですでに、同製剤は肝炎感染の危険性が高いこと、血清肝炎は致死性の疾患であることが知られていました。また、代替療法として、輸血や基礎疾患の排除という、より安全で有効な治療法がありました。にもかかわらず、国はずさんな臨床試験によって製剤の有用性を安易に認めたのです。

その後も、国内で薬の再評価制度が導入された1971年、アメリカでフィブリノゲン製剤の承認が取り消された1977年など、製造承認を取り消すチャンスが何度もありながら、結局何らの対策もとられないまま時間が過ぎていきました。フィブリノゲン製剤は、1985年1月になってようやく再評価指定がなされました。しかし、承認取消しまでは至らず、1987年3月に青森県で8名の集団感染が発生し、そのことがマスコミに大々的に取り上げられた後になってようやく、旧ミドリ十字が非加熱フィブリノゲン製剤の回収に乗り出しました。ところが、そのわずか10日後には、それと入れ替わるように乾燥加熱製剤が製造承認されてしまったのです。1987年7月、再評価委員会はフィブリノゲン製剤には有効性がないとの判断を下しましたが、そこから更に11年も経った1998年になるまでフィブリノゲン製剤の適用は限定されませんでした。

薬による被害は、対応が遅れれば遅れるほど広がります。現にフィブリノゲン製剤により多くの肝炎感染被害者が作り出されました。輸血による感染者も含めれば国内に200万人以上もの被害者がいると言われています。肝炎の治療法を確立すること等を通してこの200万人全体を救済することが弁護団としての最終目標です。戦後日本の血液行政・薬事行政の責任を総括的に問う壮大な意義をもつ訴訟です。みなさまも訴訟の帰趨に是非ご注目下さい。

ごあいさつ

田中 篤子 (たなかあつこ・新潟県弁護士会所属)

私は、一橋大学法学部を卒業後、司法修習を経て、平成17年から平成25年までの約8年間、裁判官として、さいたま地方裁判所、岐阜地方裁判所、前橋地方・家庭裁判所などで、刑事事件、民事事件、家事事件、少年事件などを担当していました。

裁判官は、一人で多数の事件を担当するため、日々忙しく、大変でしたが、とてもやりがいがありました。
事件の当事者や社会全体にとって、もっとも公平で妥当な結論は何かを考え、判断を下すという仕事は、私に多くのことを学ばせてくれましたし、得がたい経験を積むことができたと思います。

しかし、他方で、裁判による解決に限界を感じることもありました。
裁判所に来る人たちには、それぞれ背景事情があり、その事情にはさらに社会的な背景があります。
個々の事件を解決することも大切ですが、その後ろにある社会の問題にも目を向けなくては、本当の解決にはなりません。
それが分かるにつれ、自分にも何かできることはないかと感じるようになりました。

東日本大震災の後、政府の機能不全が露わになる中で、地域のネットワークの重要性がクローズアップされました。私も、これからの日本では、各地域で、その地域の実情や問題点をよく理解した人々が、互いに連携し合いながら、問題解決に向けて取り組んでいくことが、何よりも重要なことだと感じています。

幼少の頃から、父親や自分自身の仕事の都合で、全国を転々とし続けてきた私にとって、「地元」といえる場所はありませんでしたが、今後、どこか一つの場所で、地域に根ざして活動していきたいと考えたとき、すぐに頭に浮かんだのは、夫の地元である、ここ上越でした。豊かな自然や人々の温かい心に触れて、その思いはますます強くなっているのを感じます。

私は、弁護士の仕事を通じて、ここ上越や、社会全体が、みなさんにとってより暮らしやすい場所となるように、努力していきたいと思います。

また、上越では数少ない女性弁護士の一人として、当事務所を、女性が安心して気軽に足を運べる法律事務所にしていきたいと考えています。

略歴

2002年 一橋大学法学部を卒業
2003年 司法試験に合格
2005年〜 裁判官としてさいたま、岐阜、群馬などで民事・刑事・家事の各事件に携わる。
2014年 弁護士登録。上越中央法律事務所に入所。